片道切符だった、宇宙で死んだ犬の話

半世紀以上前のこと、『ライカ』と呼ばれる一匹のメス犬が人類の手によって宇宙へと打ち上げられた。ライカは宇宙を初めて飛行した”生物”であるが、その光の裏には壮絶な物語が隠されていた。光と闇というものは、やはり表裏一体なのであろうか。

何か目立つ物を打ち上げてくれないかね…

1957年10月4日、ソ連が人類初となる人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功し、世界中が新時代の幕開けに歓喜した。一夜明け、当時ソ連を率いていた共産党第一書記ニキータ・フルシチョフは一仕事を終えて休暇に出ていたソビエト連邦最初期のロケット開発指導者セルゲイ・コロリョフを呼び出した。そして、フルシチョフはコロリョフにこう言った。

『革命記念日までに何か目立つ物を打ち上げてくれないかね』

革命記念日までは1カ月を切っていた。しかし、第一書記の頼みを断るわけにはいかない。コロリョフはしばしの検討の後、フルシチョフの頼みを引き受けた。そして、犬を乗せることを確約したのだ。コロリョフはすぐに保養地に出かけた開発チームにかえってくるよう命令を下した。数日後、飛ぶようにかえってきた開発チームに向かって、コロリョフはこう伝えた。

『これから革命記念日までに、もう一機衛星を打ち上げる。衛星には、犬を乗せる。』

それまで休みなしで働いていた設計局のメンバー達。休暇を打ち切られ、始めに聞いた言葉がそれだった。残り1カ月もない時間、さらには犬を打ち上げるといった計画に困惑した者も多かったに違いない。コロリョフは続けた。

『これはフルシチョフ第一書記から直々に受けた命令だ。もちろん時間がないことも分かっている。公式ドキュメントなど書いている余裕はない。そこで、今後は私の指示に従ってほしい。』

特に宇宙開発は綿密な打ち合わせのもと行うべきである繊細な領域である。しかし、彼らには時間がなかった。図面が出来上がると、すぐさま作業工房に持ち込まれ、工作部隊が製作を開始するという急ピッチの作業が行われた。公式会議も文章も存在しない、フルシチョフの口約束のもと進められたのである。

宇宙へと旅立つ『犬』の選出

実は、実験に用いる最も適切な動物として犬のほかにサルも候補に挙がっていた。だが、サルは風邪をひきやすく、また、その落ち着きのない荒っぽい動きは体に取り付けるセンサーを引きちぎりかねないという懸念があったことから犬が選ばれた。犬は飢えに強く、しつけしやすいというのも大きな特徴だった。ちなみに、犬は間抜け面のサルと違って、見栄えが良いというのも理由だったようである。そして、宇宙へ行く犬の条件は次の通りであった。体重6kg以下、体長35cm以下。白もしくは明るい色の毛を持ち、耐久力に優れ、しつけに従順な犬。狭い宇宙船のため、排泄姿勢の問題から犬の性別はメスに限定された。

極秘宇宙計画に参加する犬、何か研究室で管理されていた特別な者たちが選ばれるような気もするが、集められた犬たちは全て研究者が連れ帰った野良犬だった。何も特別ではなかったのである。

始めの段階では、犬を少しずつ狭いスペースにならす訓練が行われた。これは小さな観察窓の付いたカプセルの中に閉じこめる閉鎖実験であるが、徐々にカプセルの大きさを小さくしていく。犬たちは最初の数日は吠えたり鳴いたりしたが、やがて慣れて落ち着きを取り戻していった。続いて、より狭く殆ど体を動かすことのできない程度の空間に閉じ込められる。ヘルメット付きの気密服を着せられた犬たちはチェーンで固定され、立ち座りと僅かな前後移動だけができる状態に最長20日間も束縛された。さらには、外界からの刺激に対する耐性試験も行われた。

訓練に適応できない犬は随時除外され、この時点で10匹の犬が残っていた。この中から6匹が選抜され、実際の気密カプセルを用いた閉鎖訓練が行われた。様々な検討が加えられた結果「クドリャフカ」という犬が選び抜かれた。もとはモスクワ市内を歩いていた放浪犬が宇宙に行くことになったのである。

ところで、このクドリャフカの正体が「ライカ」である。打ち上げ直後の報道混乱期以降、報道の現場では世界的に「ライカ(ないしはライカ犬)」と呼称しており、以降ソ連国内関係機関を含めてライカという名前が使われるようになったのだ。そのため、以降はクドリャフカのことは”ライカ”と書くことにする。

ライカを運ぶ宇宙船

犬を飛ばすわけである。スプートニク1号のように金属球を打ち上げるのとはわけが違う。生きて宇宙に届けなくては意味がないため、きちんとした生命維持装置は不可欠となる。しかし、宇宙船の重量が上がりすぎるとと打ち上げ難易度も高くなってしまう。

そのため、ライカが入るスペースは半径32cm、長さ80cmの気密カプセル(画像下部分)に決定された。そして、中央の球形カプセルはスプートニク1号で使用された無線発信器とバッテリー、その上のランチジャー型の物体は宇宙線・X線・紫外線観測センサーである。さらに、ライカには心拍数、血圧、呼吸を確認するためのセンサーが組み込まれた宇宙服に身を包んだ。この宇宙服でライカの生死を確認することができる。

最大の問題となったのが、餌の供給であった。

システムをできるだけ簡単にするため、食事は一種類のみを供給することになった。様々な検討の結果、体重を減らすことなく犬を8日間生存させることができる栄養メニューと水分を割り出し、飼料はパンくず40%、粉状肉20%、牛脂肪20%の配合で、これに水とゼラチンパウダーが混ぜられゼリー状になったものに決定された。これを約2Lのスズ製の缶へと詰められ、1日100gを食事の時間にカートリッジベルトで犬の前に出されることとなる。こうしてできあがったスプートニク2号は全体のサイズが高さ4.3m、底部の直径2.3mの円錐形で、重量は504kgとなった。 

これでライカを無事に宇宙に届けられる。しかし、この宇宙船には大気圏に再突入し安全に着陸するための装備が取り付けられていなかった。いや、取り付けることができなかったというのが正解かもしれない。

当時にはまだ大気圏再突入の技術が確立していなかったのである。これにより、ライカが乗ったスプートニク2号が打ち上げられたその瞬間、遅かれ早かれライカの死が確定してしまう。非常に残念なことではあるが、人類の進歩のために、ソ連がアメリカよりも先に宇宙開発を進めるためには仕方のないことだったのかもしれない。

このプロジェクトに関わっていた者たちはこの事実を当然のごとく知っていた。そのため、関係者たちはライカを大切に扱った。訓練中、ムチで打つこともあったが、基本的に待遇はよかった。コロリョフなど、犬たちを視察する度に持ってきた餌を与え、撫で、可愛いがっていたのである。

片道だけの、宇宙旅行

11月3日、打ち上げを目前にして研究所の一職員が気密カプセル内の圧力を“故意に”変動させた。ヤツドフスキーらはコロリョフに対し、もう一度カプセルを開け、圧力調整をやり直させて欲しいと願い出た。下手すれば打ち上げ延期につながりかねない行為であったが、コロリョフは説得に押され、許可を出してしまった。ヤツドフスキーらの胸中には、別の企てがあった。ロケットの先端に上った彼ら。カプセルには普段はネジ止めされている小さなエアホールがあるのだが、そこを開けて欲しいとエンジニアに頼んだ。技術的な処置だろう、エンジニアたちはそれをわずかに開ける。ところがヤツドフスキーらは、最後の水をライカに与えさせて欲しいと懇願を始めたのだ。ライカは3日前にカプセルに閉じこめられて以来、ゼリー餌しか口にしていなかった。“彼女”はもう、生きて帰ることはできない…せめて一杯の水を最後に飲ませてやりたいというヤツドフスキーらの策略だったのだ。コロリョフにばれたら、物凄い剣幕で怒鳴られるのは明白、エンジニアはかなり戸惑ったことだろう。だが懇願に折れたのか、許可を出した。ヤツドフスキーは注射器に水を満たすと、その穴から餌のトレイめがけて水を注ぎ込んだという。穴は再び閉じられ、保護コーンが被せられた。

11月3日午前4時28分(日本時間)、ライカは強烈な爆音と共に帰還予定のない宇宙の旅へと出発した。ロケットは、4基の鋼鉄製ペタルに吊り下げられている。推力を増すロケット、その力は瞬く間に重力を振り切って、ペタルが一斉に開いていく。ライカには最大5Gもの重力がかかっていた。脈拍は通常の3倍近くの260にまでさしかかる。もちろん、これは全て想定内の出来事だった。全てのプロセスは問題なく、間もなく軌道投入成功が確認された。 

「生きています!成功です!!」

ついに、生物が生きた状態で宇宙飛行を開始したのだ!世界は再びソ連へ、そして宇宙へ釘付けとなった。

ここからの話は『1600km上空で1週間のミッションを完了したライカは、計画通りミッションの最後に毒を混ぜた餌を食べて安楽死した』ことになっていた。そして45年間そのように信じられていた。しかし、現実は全く違ったものだったのである。真実は次の通りだ。

地球を1周した際にはライカの生体反応が確認されていた。全ての数値は通常値を示しており、長時間の微小重力環境でも生物が問題なく生存できることを証明していた。カプセル内の酸素は充分で、気密が漏れていないことも確認された。関係者は誰もが、このまま正常に飛行するものと思っていた。 

問題が起きたのは地球を3周した頃だった。カプセル内の温度が跳ね上がり、40度に達していたのだ。センサーの値から、パニックになったライカが激しく動いていることが読み取れた。しかし、トラブルが起こっているのは宇宙なのである。地上の人間にはどうすることもできない、宇宙で暑さにもがき苦しむライカをただ見殺しにすることしかできない。

1時間半後、スプートニク2号から送信されたデータにはもうライカの生体反応は示されていなかった。ライカは力尽きていた、打ち上げから僅か5,6時間のことであった。

それから5か月後。1958年4月14日、米国東岸からカリブ海にかけて、一筋の流星が目撃された。それは夜空に光るどの星よりも美しく輝き、儚く消え去った。ライカとスプートニク2号の最期である。

【参考資料】

「 Sputnik 2 – was it really built in less than a month? 」
 http://www.svengrahn.pp.se/histind/Sputnik2/Sputnik2.htm

「 Sputnik-2, more news from distant history 」
 http://www.svengrahn.pp.se/histind/Sputnik2/sputnik2more.html

「 伝説の犬 ~ライカ~ 」
 http://spacesite.biz/ussrspace.dog_raika.htm