パンデミックとは広い地域で感染病が大流行すること。歴史を振り返ると、無数の大規模なパンデミックの事例があり、なかには政府を破綻させ、文明全体を滅亡の危機に陥らせるほどの猛威を振るったものもありました。そこで今回は、歴史に大きな足跡を残した10の疫病を紹介しましょう。
「アテナイ(アテネ)のペスト」はペロポネソス戦争時のBC430年にギリシャで突発した伝染病でした。この疫病の正体については腸チフス、天然痘、はしかの可能性が検討されたものの、歴史家たちの意見は一致しておらず、腺ペストの1種だったという推測が最も広く受け入れられています。スパルタ軍の侵攻から避難するためにアテナイの市民がこの都市国家の壁の内側に立てこもったときに疫病が発生しました。各地区に人が密集して住むようになったことが菌の繁殖にとって絶好の条件となりました。この疫病によってアテナイ市民の3人に1人が死亡したと言われ、国家指導者のペリクレスもこの病で命を落としました。
熱帯地域にほとんどが留められているとは言え、マラリアは今も世界で最も深刻なパンデミックのひとつであることに変わらず、毎年5億人もの人々が感染する状況が続いています。特定の蚊の中にいる寄生生物を原因とするこの病気は薬物に耐性があり、効果的なワクチンはまだ開発されていません。マラリアとその影響が歴史上の重大事の主な要因となってきたことは多くの文献で確認できます。アメリカ南北戦争時のみで100万件以上の症例があり、マラリアはローマ帝国の衰退と最終的な崩壊の要因となったと一般的に考えられています。
現在は、はしかか天然痘の流行ではなかったかと思われていますが、「アントニヌスのペスト」はAD165年から180年にかけてローマ帝国を荒廃させたパンデミックでした。「ガレノスのペスト」としても知られているこの病気は戦場から帰還した軍隊によってローマ帝国に持ち込まれたのではないかと考えられます。ピーク時には感染者の四分の一を死に至らせ、合計500万人の犠牲者のなかにはローマ帝国のふたりの皇帝が含まれていました。AD251年に類似した病気が発生していますが、「アントニヌスのペスト」の再来だと多くの専門家は考えています。この病は「キプリアヌスのペスト」と呼ばれ、流行の最盛期にはローマ市で1日に5,000人が亡くなりました。
人が密集した不衛生な条件下で急速に広がることで知られている発疹チフスは20世紀のみでも数百万人の死者を出したと推定されています。戦時下の前線で突発すると見られることから「戦争熱」という別称でも知られています。三十年戦争の間に発疹チフスで800万人のドイツ人が死亡したと言われており、また、ナチスの強制収容所での死の重要な原因であったという明確な記録もあります。発疹チフスは、ナポレオンのロシア遠征時にフランス軍をほぼ全滅させたことで最もよく知られていると思われます。40万人ものフランス兵がこの病によって死に、この数は戦闘で命を落とした兵より多かったということです。
コレラは歴史上、最も継続的に危険な病でありつづけたもののひとつです。1816年から1960年代初めにかけて、コレラのパンデミックは7回にわたって発生し、何百万人もの死者を出しました。汚染された食品や飲料水を通して感染することの多いこの病は最初にインドで発生し、1817年から1860年の間に4,000万人もの人々の命を奪いました。この流行はすぐに西欧と米国に広がり、1800年代半ばに10万人以上の死者を出しました。それ以来、コレラは定期的に流行を繰り返してきましたが、医学の進歩により、この病で命を落とすことは減っています。かつては致死率が50%以上ありましたが、現在は治療を受ければ、非常にまれな症例でない限り、命に関わることはありません。
「ユスティニアスのペスト」と黒死病に続く「3番めのパンデミック」は腺ペストの3度めの大流行でした。1850年代に中国で始まり、最終的に人の住む6つの大陸すべてに広がった後、1950年代のある時点で徐々に消えていきました。現代医学の飛躍的進歩にもかかわらず、「3番めのパンデミック」は中国とインドの1,200万人の命を奪いました。現在、不活性化していると考えられていますが、最近では1995年にアメリカ西部で多数の孤立した症例が見つかりました。
すでに根絶に成功しましたが、天然痘は15世紀にヨーロッパからの入植者たちが南北のアメリカ大陸に持ち込み、壊滅的な打撃を与えました。新大陸に持ち込まれたすべての病気のなかでも天然痘は最も毒性と伝染力が強く、米国と中央アメリカに住んでいた数百万人もの先住民の命が失われたと推測されています。天然痘はアステカ文明とインカ文明を滅ぼし、最終的にスペイン人が新大陸を征服する主要因になったと一般的に考えられています。この病は欧州においても同様に猛威を振るい、18世紀に限っても6,000万人が死亡したと推定されています。
歴史上、最初に記録されたパンデミックだったと通常考えられているのが「ユスティニアスのペスト」です。この病はAD541年ごろ、ビザンチン帝国で発生した特別に悪性の強い病気でした。死者の正確な人数は明らかではありませんが、世界中で1億人に上ったと見られ、最盛期には1日に5,000人が死んだと推定されています。地中海地方東部では少なくとも4人に1人が亡くなったと考えられます。圧倒的な死亡率であったこと以上に注目されるのは、政治的影響が広範囲に及んだことです。ビザンチン帝国が東方へ勢力を広げてイタリアを侵攻しようとしていたのが、この病の流行によって妨げられ、そのためにヨーロッパの歴史の行く手が大きく変わることになったのです。
第一次世界大戦によって多くの国が疲弊した直後の1918年、スペイン風邪が蔓延しました。この流行は史上最も凶暴なパンデミックのひとつと一般的に考えられています。世界の全人口の三分の一が感染し、1億人もの人々が死亡したと推定される世界的な現象でした。H1N1の系統として特定された病原ウイルスは現れたり消えたりする波の周期を持ち、ある地域で発生してすぐに消えるということを頻繁に繰り返しました。各国政府は大きな騒ぎになることを恐れ、この病気が深刻なものではないという印象操作をすることに躍起になりました。そうして行われた戦時下の検閲のため、このインフルエンザの広範囲に及ぶ影響は数年後まで十分に認識されませんでした。第一次世界大戦中に中立を保ったスペインでのみ、このパンデミックについて広い範囲の報道を行うことができたので、後にスペイン風邪と呼ばれるようになったのです。
歴史上、最もよく知られているパンデミックと思われる黒死病は1300年代の大半を通してヨーロッパに打撃を与えた腺ペストでした。特徴としては、皮膚にできた腫れ物から血がにじみ出し、高熱が出ることが挙げられます。死者数は14世紀のみでも7,500万人から2億人の間と見られ、最近の調査では、ヨーロッパの全人口の45~50%が失われたと結論づけています。腺ペストは、その後100年の間、定期的に発生しては何千人もの命を奪うことを繰り返し、常に脅威となり続けました。最後に大流行したのは1600年代にロンドンで発生したときでした。
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