メキシコ湾の深さ759メートルの深海。漆黒の水中の奥から、1本の細い腕がうねりながら現れました。
突如として、それが裂けたかと思うと、怪しげな1本の腕だったものが、のたうつ触手のブーケとなり、そしてついに暗闇から現れたのは正真正銘の巨大イカでした。花を咲かせるように何本もの触手を広げ、攻撃を仕掛けてきました。
その後、獣のようなこの生きものは現れたときと同じように突然、深い闇の中へと消えていったのです。
生きた巨大イカが米国の水域で撮影されたのは、これが初めてのことです。アメリカ海洋大気庁が出資する探査を行っていた研究チームがこの貴重な映像を撮ることに成功しました。チームは水深1,000メートルの「ミッドナイトゾーン(漸深層)」と呼ばれる区分帯に生息する深海生物に光の遮断がどのように影響するのかを調べていました。
この歴史的映像を世に出すためには、特殊化した探査機を使うこと、出会うのが稀なイカをカメラの前におびき寄せる運に恵まれること、そして、何時間もの録画映像からその姿を探し出すこと、そのすべてを23名の乗組員全員でやり遂げなくてはなりませんでした。
その上、金属製の調査船に突然、雷が落ちるというアクシデントが起き、研究者たちのコンピュータの故障が心配されたのですが、幸いにもダウンロードした録画は無事でした。しかし、左舷船首の先で突然、水上竜巻が発生するという更なるアクシデントにも見舞われたのです。
今回の探査のリーダーのひとり、イーディス・ウィダー氏はこの苦難を「私が今まで海上で過ごした驚くほどすごい日々の内のひとつ」と表現しています。
今年の6月、2週間の航海を終えた探査船ポワン・スール号は波止場に停泊していました。海洋研究保全協会(the Ocean Research & Conservation Association)の創立者であるウィダー氏は今回の発見にまつわる数々の劇的な出来事について、その波止場から報告してくれました。
ウェイダー氏が探査用に特別に開発したカメラシステムが今回の調査に使われました。メドゥーサと名付けられたこのカメラシステムは深海生物が感知することのできない赤い光を使って、科学者が様々な種の生きものを発見したり、めったに人の目に触れることのない生物種を観察したりするのに役立ってきました。
探査機は無脊椎動物が発光して身を守るメカニズムを模倣したクラゲの模造物を搭載しています。イカなどの生物をカメラの方へおびき寄せるために、この偽クラゲより大きな捕食生物にとって餌に見えるものを設置したというわけです。
2週間の探査期間の終わりまで後数日というその日、ニューオリンズの東南160キロの沖で巨大イカが餌に手を伸ばしました。
6月19日、激しいスコールでメキシコ湾の海上は荒れていました。大きく揺れる船の中は物が散乱し、その中でウェイダー氏はメドゥーサによって撮影された映像の処理作業をしようと映像が送られてくるのを待っていました。その時、バハマのケイプ・エルーセラ研究所(the Cape Eleuthera Institute)所長である研究仲間、ネイサンJ.ロビンソン氏が駆け込んできました。
「ネイサンは目が飛び出しそうな顔をしていました」とウェイダー氏は振り返って言います。「口も利けないくらい驚いた様子だったので、何かとんでもないものが映像に映っていたにちがいないとすぐに気づきました」
「私たちが叫び声を上げるとほかの乗組員たちが研究室に走り込んで来ました。みんな、興奮を抑えようと必死でした。科学では我を忘れて間違いを犯さないように気をつける必要があるのです」とウェイダー氏。
とは言え、映像で目にしたものについて興奮しないようにするのは容易ではありませんでした。確かにダイオウイカのように見えましたが、嵐のせいで、その生物を的確に同定できる陸上の専門家に映像を送ることが困難になっていました。
そこへ、あたかも事態がもっと劇的でなくてはならないかのように雷が船を直撃したのです。
「ドーン」と轟く音にウィダー氏が外へ飛び出すと黄色や茶色の煙が噴き出ていました。瓦礫が甲板の上に散らばって落ちています。ウィダー氏たちは貴重な映像が入っているコンピュータがどうなっているかと青くなりました。
「皆が研究室に急いで行き、私たちにとって最高にすごい映像が無事であるか確かめようとしました。コンピュータは無傷でした」とウィダー氏はその時のことを語っています。
それから2時間ほどして、竜巻と同類の気象現象である水上竜巻が近くで発生していたことが船長から乗組員たちに伝えられました。
それでも、最後にはすべて良しとなりました。海洋大気庁が運営する国立系統分類学研究所(National Systematics Laboratory)の動物学者マイケル・ヴェッキオウニ氏が、映像に映っているのはあの珍しいイカの種類だと、遠隔地にいながらも認定することができたのです。イカは体長が少なくとも3メートルから3.7メートルあると研究者らは推定しています。
落雷や水上竜巻がなかったとしても、自然生息地にいるダイオウイカを撮影するのは極めて難しいことです。あまりに困難なため、誰も達成できなかったのですが、2012年に日本の沖で探査を行っていたウィダー氏と共同研究者たちがメドゥーサを使って、生息地である深海にいるダイオウイカの姿を初めてカメラでとらえました。
2004年には日本の研究者らがダイオウイカの写真を史上初めて撮影し、生きているダイオウイカの触腕の一部を採取することに成功しました。しかしながら、科学総合誌『スミソニアン』によると、歴史的には研究者たちがダイオウイカについて学んでいたことの大半は海岸に打ち上げられた死体か、マッコウクジラの腹から回収された死体を標本にしたものから得た知識だったということです。
ダイオウイカは巨大であるとともに異星人のような風貌をし、そのうえ生態がとらえどころがないことから、海洋生物の中でも伝説的な位置づけがされてきました。「8本のうごめく腕と2本の水を切るように動く触腕があります」このイカの体の特徴をウィダー氏が説明してくれました。
「人類に知られている生きものの中で最も大きな目をしており、肉を引き裂くことのできる鋭くとがった口を持っています。吸った水を噴射することで進むジェット推進方式で前にも後ろにも泳ぐことができます。血液は青く、心臓は3つあります。人間がほとんど何も知らない不思議な不思議な生命体なのです」
イカは伝説上の巨大生物クラーケンのモデルとなってきました。ジュール・ヴェルヌの『海底二万マイル』やハーマン・メルビルの『白鯨』に登場したことで怪獣としてますます恐れられるようになりました。これらの物語は人々の抱くクラーケンのイメージを最も良く描写しています。
reference: sciencealert