2013年の3月、ある発表が科学界を駆け巡りました。
それまでは理論上の存在にすぎなかった、ヒッグス粒子と呼ばれる素粒子が実在することが確認されたのです。その発見がなされたのは、欧州原子核研究機構の大型ハドロン衝突型加速器、通称LHC。この粒子加速器を用いて、光速付近まで加速した陽子などの粒子同士を正面衝突させて、その分解物からヒッグス粒子の存在を突き止めたのです。
ほぼ光速で動く粒子を手に取って観察してみたいと思うのは、科学に興味がある人間としては当然のことでしょう。人類の科学力の結晶とも言えるこの粒子加速器ですが、その中に手を伸ばしてみると、何が起きるのでしょうか。あなたの手、そして身体は無事でいられるのでしょうか。
今回は、粒子加速器に手を突っ込むとどうなるのかについてご紹介したいと思います。
まず、粒子加速器についてご紹介しましょう。粒子加速器とは、電磁場を用いて電気を帯びた粒子を非常に速い速度まで加速させる装置のことです。例えば、原子を構成している電子はマイナスの電気を帯びています。そして、その電子の周辺に電磁場をかけることで、電子が動き出すのです。この電磁場が強ければ強いほど電子の速度は速くなります。
粒子の種類と速度により、粒子加速器は様々な用途に活用することが可能です。例えば、陽子線治療と呼ばれるがんの治療法では、粒子加速器を用いて陽子を光速の40%から60%程度まで加速し、がんの病巣を狙い撃ちすることができます。
また、電磁場を用いて光速近くにまで加速した電子の軌道を曲げると、放射光と呼ばれる非常に明るく指向性の高い電磁波を得ることができるため、電磁波を用いた化学分析にとって有用なものとなります。
当然、用途により必要とされる速度、すなわちエネルギーが異なります。粒子のエネルギーを測定する際は、エレクトロンボルトと呼ばれる単位を用います。これは1つの電子が1Vの電圧で加速したときのエネルギー量であり、私たちの普段の生活では問題にならないような小さなエネルギー量です。
陽子線治療の陽子1つあたりのエネルギーはおよそ70から250メガeV。それに対し、放射光に用いられる電子はおよそ1から10ギガeVであるため、陽子線治療の陽子の10倍から100倍程度のエネルギーになります。
そして、最も高いエネルギーが求められるのが、冒頭にも紹介したLHCのような、高エネルギー物理学に用いられる粒子加速器です。
例えば、ヒッグス粒子の存在を突き止めたときのように陽子同士を光速に近い速度で正面衝突させ、ビッグバン直後の宇宙の状態を再現することで素粒子の発見やそれらの間に働く相互作用の研究が行われています。LHCはそのような粒子加速器の中で世界最大のものとなっています。
スイスとフランスの国境近く、地下175mに全周27kmの円形のリングが埋まっており、それを取り囲むように摂氏-271度に保たれた超電導電磁石を作動させて強力な電磁場を生成し、極高真空に保たれたリング内で粒子を光速の99.999999%まで加速して、衝突させることができます。その最大エネルギーは、陽子の場合約6.5テラeV。
6.5テラeVまで加速させた陽子を正面衝突させるとなると、衝突の総エネルギーは最大13テラeVに到達します。どのぐらい大きいのかわかりずらいとは思いますが、このエネルギーの大きさから、一部の理論ではミニブラックホールが誕生してしまう可能性があると考えられ、実験を中止させようとする訴訟にまで発展しました。で
すが、幸いなことに今までミニブラックホールが生成された形跡はありませんし、仮に生成したとしてもすぐにホーキング放射により蒸発してしまうと考えられています。
さて、早速危険な香りしか感じない粒子加速器の中に触れてみましょう。何が起きるのでしょうか。にわかには信じられないかもしれませんが、これを実際にやってしまった人間が1人存在します。
その人物とは、旧ソ連のアナトーリ・ブゴルスキーという科学者。冷戦時のソ連の出来事のため詳細は明らかになっていませんが、当時ソ連最大の粒子加速器であるU-70で働いていたブゴルスキーは、1978年7月13日に加速器の不具合を直すために加速器内部の陽子の通り道に頭を突っ込んだとのこと。
その瞬間、なぜか作動していた陽子ビームがブゴルスキーの頭を直撃したのです。U-70の最大エネルギーは76ギガeV。光速の99.993%に迫る速度でブゴルスキーの後頭部の左側から侵入した陽子は、頭を貫通して左の鼻へ抜けていったと言います。ブゴルスキーの回想によれば、太陽の1000倍以上明るい光を見たとのことですが、不思議と痛みは感じなかったそうです。
しかし、なんと彼はその日はそのまま仕事を続け、この出来事を誰にも話していなかったとのことです。しかし、その後数日に渡り顔の左側が腫れあがり、陽子が通った部分の皮膚が剥がれ落ちてしまい、この事件が発覚しました。
ブゴルスキーの頭部が吸収した放射線量は、2000から3000グレイと推定されており、5グレイでも致死量と言われることから、ブゴルスキーはすぐに亡くなってしまうと考えられていました。
しかし、奇跡的にもブゴルスキーは2021年現在においても健在であり、左側の顔面麻痺や左耳が聞こえないなどの症状はあるものの、後に博士号の取得や結婚をするなど、通常の生活を営んでいます。バイエンススーツを着ていたのでしょうか。なぜ彼が生き延びられたのかは、未だに分かっていません。
では、現代に存在している粒子加速器に手を突っ込むとどうなるのでしょうか。
当たり前ですが、まず手を入れること自体が非常に困難となります。LHCの場合では、粒子の通り道であるリングの外側に摂氏-271度に冷やされた超電導電磁石の層があり、そのさらに外側に冷却用の液体ヘリウムの層が存在します。
それぞれの層は減圧されており、特に粒子の通り道であるリングの内側に関しては大気圧の10の-10乗から-11乗という、大気が存在しない月面の大気圧に匹敵するほど。
このような困難を乗り越え、LHCの粒子加速器の内部に手を入れたときを考えてみましょう。ブゴルスキーに衝突した最大76ギガeVの陽子と比較すると、LHCの陽子のエネルギーは100倍に迫ります。何が起こるのか、イギリスのノッティンガム大学が数名の科学者にその質問を投げかけてみたところ、意外にも分からない、という答えが多かったようです。
インタビューされた科学者の解説によると、陽子1つあたりのエネルギーである6.5テラeVのエネルギーは一匹の蚊が飛行しているときのエネルギーと同等であり、LHC内で移動している陽子の数を考えると航空母艦が11ノット、時速20kmで航行する際のエネルギーがある。
それがおよそ1mm四方に集中しているとのことです。エネルギーの密度が高すぎて、陽子がただ手をすり抜ける可能性もありますが、一方で手に衝突する過程で陽子が持っているエネルギーを何らかの形で手に与えなければならず、実際何が起きるのかは分からないとのことです。
残念ながら、世界最高峰の物理学者でも答えは分からないようです。どうしても手を入れたいのであれば止めはしませんが、2週間ほどかかると言われる真空に引く作業を再度行う羽目になる科学者達の苦労を思うと、謎のままにしておいた方がいいのかもしれません。え、それでも入れたいって?ふふっ、いってらっしゃい!