死ぬと分かっていながら宇宙へと旅立った男の話

宇宙開発が非常に困難であることは、疑いようのないことでしょう。

それは宇宙開発の黎明期である1960年代において、より顕著なものでした。以前のバイエンスで紹介した、「ライカ」のように、宇宙で命を落としてしまう例も少なくありません。

そして、それは人間でも同様です。残念ながら、宇宙開発の歴史上、人間が犠牲になってしまうような悲劇は、数多く起きてきました。その中でも、今回は歴史上初めて宇宙飛行で命を落とした人間についてのお話です。

彼は、なんと自分の死を承知の上で、ロケットに乗り込んだというのです。一体、何があったのでしょうか。どんな思いで、宇宙への片道切符を手にしたのでしょうか。

今回は死ぬと分かっていながらも宇宙へと旅立った宇宙飛行士「ウラジミール・コマロフ」についてご紹介したいと思います。

宇宙開発の歴史を語る上で、避けて通れないのが冷戦です。第二次世界大戦が終結した後、イデオロギーの異なる2つの大国、アメリカとソ連は、競い合うようにして宇宙開発を進めていました。

スペースレースと呼ばれるこの競争は、当初はソ連が優勢でした。1957年10月4日に世界初の人工衛星、スプートニク1号を打ち上げたことで、ソ連は全世界に衝撃を与えました。

これに焦ったアメリカは、急遽人工衛星の打ち上げスケジュールを早めましたが、発射台から1メートルほど上昇した後、大爆発を起こすという屈辱的な大失敗を起こします。

さらに、1961年4月12日には世界初の有人宇宙飛行をユーリ・ガガーリンが、1963年6月13日には女性初の有人宇宙飛行をワレンチナ・テレシコワがそれぞれ達成。どちらもソ連によるものです。

そして1964年10月12日、今回の主人公であるウラジミール・コマロフが、世界発の複数人による宇宙飛行の船長として宇宙飛行を完遂しました。このように、1960年代前半までは、ソ連はアメリカとのスペースレースにおいて常に一歩先を歩んでいるように見えるでしょう。

しかし、ソ連も、そしてアメリカも功績を急ぐあまり宇宙飛行士の安全面を軽視しがちだった、というのが実情でした。事実、コマロフが宇宙を飛行した際は、万が一機体に何か問題が起きた場合、コマロフを含む3人の宇宙飛行士は助からないと予想されていました。

当時、アメリカが2人での宇宙飛行を計画していたため、ソ連はそれに対抗して2人用の機体に3人を宇宙服なしで押し込むという強引な方法でアメリカに対して優位に立とうとしたのです。

コマロフが宇宙への片道切符を手にすることとなる1967年は、宇宙開発におけるアメリカの驚異的な追い上げに対して、なんとか優位を保とうとするソ連の焦りが渦巻いていました。

ウラジミール・コマロフは1927年にモスクワで生まれ、終戦後はソ連の空軍パイロットとして活躍していました。

新型の飛行機に搭乗し評価するテストパイロットとして充実した日々を過ごしていた中、1959年に宇宙飛行士の候補生として抜擢されます。そこで出会ったのが、後に親友となる7歳年下のユーリ・ガガーリンです。

ガガーリンはすぐに頭角を現し、1961年に世界初の有人宇宙飛行を達成しました。一方、コマロフは年齢が30代、さらにケガや心臓に異常が見つかるなど、何度も宇宙飛行士候補から外されそうになったと言います。

しかし、豊富なパイロット経験と、自分より年下の宇宙飛行士候補生に対して勉強を教えていたことから、「博士」というあだ名をつけられ、候補生の中では一目置かれていたようです。

そしてついに、1964年には、先程紹介した世界発の複数人による宇宙飛行、そしてその船長に抜擢されます。幸いなことにミッションは何事もなく終了し、コマロフはソ連の英雄となりました。

そんなコマロフがガガーリンとともに配属されたのが、ソユーズ計画。そこでは、1967年4月23日に宇宙飛行をするというミッションを命じられます。

ソ連の設立50周年、かつソ連の父、レーニン誕生を祝う記念式典の一環でした。そのため、延期は絶対に許されません。しかし、開発当初から問題が噴出します。ソ連共産党からの指示は二転三転し、無人テスト機がことごとく失敗。

コマロフとガガーリンらは、ソユーズ1号と名付けられた機体の問題点を203個指摘しており、それを共産党に向けて訴えていましたが、何も反応がなかったとのこと。アメリカに対する優位性を維持しようと焦りがあったのでしょうか。

ソユーズ1号の打ち上げ予定日3ヶ月前、アメリカのアポロ1号で火災事故があり、予定通り打ち上げを敢行することでソ連の技術力を誇示しようとしたのか。

正確な理由は定かではありませんが、ソユーズ1号の打ち上げは予定通り行われることになりました。乗組員は、ウラジミール・コマロフ。補欠にユーリ・ガガーリン。

2人ともソユーズ1号の安全性に問題があることは、十分分かっていました。親友だからでしょうか。2人は互いを庇い合うようにソユーズ1号の乗組員になろうとしていたことが分かっています。

コマロフは打ち上げの数週間前、友人に対して、「私はこのミッションから戻ってくることができないだろう」、と漏らしていたそうです。なぜ拒否しないのか、と聞かれると、「私が拒否すると親友のガガーリンが飛ぶことになる。それだけはだめだ」と涙ながらに訴えっていたと言います。

一方、ガガーリンは打ち上げ日に現場に現れると、補欠であるにも関わらず、突如宇宙服を着ると言い出したという証言が残っています。何がなんでも、親友が犠牲になるのを防ごうとしたのでしょうか。

しかし、ガガーリンはソ連どころか人類の英雄。補欠という役割は名ばかりで、仮にコマロフが搭乗を拒否したとしてもガガーリンが搭乗することはなかったのでないかと現在では考えられています。

結局、自分が帰ることができないとわかっていながら、コマロフはソユーズ1号に乗り込んだのです。

打ち上げ直後から、問題が続出しました。太陽光パネルの開閉不良。方向検出器の故障。コマロフは言うことを聞かない機体と格闘しながら、なんとかミッションを遂行していきました。

しかし、最後に地球に戻る際、パラシュートの不具合のため、およそ時速140kmで地面に激突。機体は炎上し消火活動が行われたものの、コマロフの炭化した遺体が一部発見されただけでした。

ウラジミール・コマロフ、享年40歳。あまりにも早い死は、ソ連のみならず世界中の人々に衝撃、そして悲しみをもたらしました。

しかし、一番悲しんだのは、コマロフが守りたかった親友のガガーリンかもしれません。ガガーリンはその翌年、自身が操縦する飛行機で墜落し、後を追うようにして亡くなってしまいます。

その死の真相は明らかとなっていませんが、ガガーリンはコマロフの死後、精神的に不安定になっていたという説もあります。親友の死による動揺が、わずかに判断を遅らせたのかもしれません。

あるいは、単なる不幸な事故なのかもしれません。固い友情で結ばれた2人の宇宙飛行士の死は、私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。



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