片道切符だった、宇宙で死んだ犬の話

2021.01.29
auther vaience
片道切符だった、宇宙で死んだ犬の話

今からおよそ60年前となる1961年4月12日に旧ソ連のユーリ・ガガーリンが、人類初となる宇宙飛行を成し遂げました。そして、その4年後となる1965年3月には旧ソ連のアレクセイ・レオーノフが人類初の宇宙遊泳に成功。

宇宙を舞台にした「人類初」をことごとく旧ソ連に奪われたアメリカは莫大な資金と人材を投入し、ついに1969年7月「アポロ11号」で2人のアメリカ人宇宙飛行士を月に到達させたのです。

世界中の約5億人の人々がテレビで月面中継の模様を見ていたとも言われ、これは人類が初めて地球以外の星の表面を歩き、アメリカの勝利が世界中にアピールされた瞬間でした。

そんな華々しい人類の宇宙進出における歴史ですが、スポットライトが当てられていない部分もあるのです。光があるところには必ず影があります。

皆さんは、「宇宙を初めて飛行した生物」の存在はご存知でしょうか?実は、初めて宇宙に行ったのは人間ではなく、一匹の犬だったのです。ですが、その宇宙旅行は奇しくも片道切符。

今回は地球上で初めて宇宙に行った一匹の犬「ライカ」についてご紹介したいと思います。

1957年10月4日、人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功すると、当時ソ連を率いていた共産党第一書記ニキータ・フルシチョフは、ソ連宇宙開発を主導していたセルゲイ・コロリョフに、革命記念日までに何か目立つものを打ち上げるよう指示を出したと言います。

革命記念日は1957年11月7日であり、1ヶ月も時間がありませんでした。しかし、コロリョフはしばらく検討した後に、犬を乗せた人工衛星を打ち上げることをフルシチョフに確約したのでした。

コロリョフ達は、早速突貫工事で作業に取り掛かり、犬を入れるための直径64cm、長さ80cmのアルミ缶の気密カプセルを制作しました。犬の生命維持装置は全てカプセル内に収納され、酸素供給や二酸化炭素除去などの空調設備も、約1週間の維持が可能でした。

ここで、最大の問題となったのが餌の供給について。システムをできるだけ簡単にするため、食事は一種類のみを供給することになり、様々な検討の結果、体重を減らすことなく犬を8日間生存させることができるメニューと水分が割り出されました。

できあがった飼料は、パンくず40%、粉状肉20%、牛脂肪20%の配合で、これに水とゼラチンパウダーが混ぜられ、ゼリー状としたもので、犬への提供は1日1回、100gとされました。

これらは約2 リットルのスズ製の缶へ詰められ、食事のタイミングに押し出されることで、カートリッジベルトで犬の前に出るようになっていました。

そして、もうひとつの問題が、排泄処理。これは単純に、あてがわれた排泄袋の中にするようにされ、ハーネスでしっかり固定された袋はゴム製で、中に活性炭とドライモスが入れられました。

衛星の準備が急ピッチで進む傍ら、犬の最終準備も行われていました。訓練は段階を踏んだ、 綿密なプログラムの下に進められ、最初の段階では犬を少しずつ狭いスペースにならす訓練が行われました。

これは小さな観察窓の付いたカプセルの中に閉じこめる閉鎖実験で、 徐々にカプセルを小さくしていきます。犬たちは最初の数日は吠えたり鳴いたりしましたが、やがて慣れ、落ち着きを取り戻していったとのこと。

次に、外界からの刺激に対する耐性訓練が行われました。まず、機器に対する拒否反応をなくす訓練が行われ、続いて音や振動に対する反応が観察されました。

最後に、個々の犬について行動や反応が詳しく記録されました。訓練に適応できない犬は随時外され、この時点で10匹の犬が残っていました。

この中から更に6匹が選抜され、実際の気密カプセルを用いた閉鎖訓練が行われました。ちなみに、極秘宇宙計画に参加する犬、研究室で管理された特別な犬のように思うでしょうが、集められ た犬たちは全て研究者が連れ帰った野良犬だったと言います。

そして、多くの困難にもかかわらず、全ての訓練目標は達成され、様々な検討が加えられた結果、「ちっちゃな巻き毛ちゃん」という意味の「クドリャフカ」と呼ばれていた犬が選ばれました。

現在、このクドリャフカは、「ライカ」という名で広く知られています。「ライカ」には「吠えっ子」という意味があり、クドリャフカがよく吠える犬であったことから、ライカという呼び名が用いられていたのでしょう。

打ち上げが決定すると、すぐに準備が始められました。体にセンサーを取り付ける外科手術や、血圧計の装着訓練。犬が動くとワイヤーがドラムから抜け、あるいは巻き取られ、その際に生じる抵抗値の変化で動きを検出する仕組みも作られました。

1957年10月31日、バイコヌール宇宙基地。午前10時の定時散歩を終えたライカは、 準備に入りました。

背中に出ている電極の周囲はヨード液で消毒が行われ、センサーや排泄袋が体に装着され、ベストとハーネスがつけられました。一方、生命維持装置には超酸化カリウムや餌などが充填されました。

ライカが中に入れられ、固定されたのは午後2時。

ライカが納められたカプセルは、射点に立つR-7(アールセブン)ロケットの先端に据え付けられました。気密カプセルには小さな観察窓がついており、頻繁に状態チェックが行われました。呼吸も心拍数も全て安定しており、ライカ自身にストレスは全く見られませんでした。

1957年11月3日日曜日のモスクワ時間の午前5時30分、ライカを乗せたR-7のエンジンが点火され、ライカは帰還予定のない宇宙の旅へと出発しました。

ライカには最大5Gもの重力が加わっていたため、脈拍が通常時の3倍近くである260にまでさしかかりました。もちろんこれは想定の範囲内。全てのプロセスは問題なく、間もなく軌道投入成功 が確認されました。

ついに、生物が生きた状態で宇宙飛行を開始した瞬間です。ここからの話は『1600km上空で1 週間のミッションを完了したライカは、計画通り毒を混ぜた餌を食べて安楽死した』ことになっていました。そして45年間そのように信じられていました。

しかし、現実は全く違ったものだったのです。地球を1周した際にはライカの生体反応が確認されていました。全ての数値は通常値を示しており、長時間の微小重力環境でも生物が問題なく生存できることを証明していました。

カプセル内の酸素は充分で、気密が漏れていないことも確認されており、関係者は誰もが、このまま正常に飛行するものと考えていました。

しかし、地球を3周して帰ってきた時に取得されたデータは重大な懸念を呼び起こすものでした。カプセル内の温度が跳ね上がり、40°Cに達していたのです。

センサーの値から、ライカが激しく動いていることが読み取れました。暑さでパニックになっていたのでしょう。ですが、トラブルが起きているのは宇宙空間。地上の人間にはただ見守ること以外、どうすることもできません。

また、ノーズコーンが分離する際、断熱カバーの一部が剥離した可能性を示唆するデータも取得されたと言います。喜びの現場は一転、重苦しい雰囲気に包まれました。

そして1時間半後、スプートニク2号が再び上空を通過した際、生体データは全てゼロを示していました。そう、ライカは力尽きていたのです。それは、打ち上げから僅か5、6時間後のことでした。

それからちょうど5か月後の1958年4月14日、米国東岸からカリブ海にかけて、一筋の流星(りゅうせい)が目撃されました。それは想像を絶するスピードで飛行し、明るく輝き、夜空へ消えていきました。ライカと、それを乗せた衛星の最後でした。

それから 3 年後となる1961年4月12日にユーリ・ガガーリンが人類初の宇宙飛行を達成したのです。ライカの死は決して無駄にはされていません。ライカの飛行から長時間の微小重力環境が生体へすぐには悪影響を及ぼさないことが明らかとなりました。

ですが、この実験のような世界中で行われている動物実験に対する賛否が存在するのは当然のことでしょう。この議論に関して、人類が正解を出すことはできるのでしょうか?

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